元プロ野球選手で、現在は野球解説者やタレント、YouTuberとして活躍している江川卓(えがわ すぐる)さん。
プロ野球選手時代には、数々の歴史的記録を作って「怪物」と呼ばれたり、1980年代の日本野球界(主にセ・リーグ)でエース級の活躍をしていた人物です。
そんな江川卓さんですが、
最近見ないけれど何をしているの?
と噂になっているというのです。
一体どういうことなのでしょうか。
そこで今回の記事では、江川卓さんを最近見ない理由、干された原因、現在の活動内容を紹介します。
江川卓を最近見ない理由は?

まずは、江川卓さんを最近見ない理由について見ていきましょう。
江川卓さんは、高校生時代やプロ野球選手時代に「昭和の怪物」と称された凄腕の野球少年です。
平成の怪物といえば松坂大輔さんなので、江川卓さんの当時の活躍がいかに凄いものだったのか、想像がつくかと思います。
江川卓さんが成し遂げた主な偉業はこちら!
成し遂げた偉業 | |
高校生時代 | ノーヒットノーラン9回 完全試合2回 20完封 36イニング連続無安打無失点 ノーヒットノーラン無四死球試合4回 【夏の甲子園】県予選合計被安打2 【選抜高等学校野球大会】一大会通算最多奪三振60個および8者連続奪三振 【春夏通じた甲子園】奪三振率14.0 |
大学生時代 | 17完封 |
プロ野球選手時代 | 投手5冠 |
特に栃木県宇都宮市にある、野球の名門・作新学院高校時代の活躍が素晴らしいですよね!

「昭和の怪物」「怪物くん」「怪物江川」などというあだ名を付けられていましたが、それも納得できるほどの活躍だったと思います。
そんな江川卓少年は、1973年に行われたプロ野球ドラフト会議で阪急ブレーブス(現・オリックス・バッファローズ)から1位指名を受けたものの入団を拒否。
慶應義塾大学への進学を決意して入試に臨んだのですが、残念ながら不合格。
当時、
江川卓さんが大学に不合格というニュース速報が流れた
のですよ!
高校生が大学受験に失敗したというニュース速報が流れるのは、後にも先にも江川卓さん一人だけなのではないでしょうか。
結果として、法政大学短期大学部への入学を経て、法政大学法学部第二部法律学科へ転籍。

そして、大学時代にも主力投手としてて東京六大学野球リーグ戦に登板するなど、華麗な活躍を見せていました。

大学卒業後は、ひと悶着あったものの阪神タイガースから読売ジャイアンツに入団し、昭和の怪物らしくしっかりとプロ野球選手としての仕事を全うした江川卓さん。

1988年シーズンを終えて現役を引退後、野球解説者やタレント、YouTuberなどとして活躍しています。

昭和の怪物と騒がれていて、今の大谷翔平さんのように、登板がない日もテレビニュースになるような学生時代を送ってきた江川卓さん。
現役引退後の活躍があまり大きく話題にならなかったことで
江川卓さんを最近見ないけれど何をしているの?
と頻繁に噂されるようになってしまったのです。
しかも、1988年から日本テレビの野球解説者になった江川卓さんは、
- 1994年4月から「スポーツうるぐす」のメインキャスターに就任
- 2008年10月より後釜の「SUPERうるぐす」でもメインキャスターを務める
- 2010年4月からスタートした後番組「Going!Sports&News」では解説担当としてレギュラー出演
と、1994年4月から日本テレビのスポーツ番組の顔として、視聴者に親しまれていました。

ところが、
江川卓さんは2021年9月末で番組を卒業した
のです!
どうやら江川卓さんが番組サイドに降板を申し入れたようですが、番組サイドは以下のような理由から、江川卓さんの降板の申し出をそこまで大きく引き止めなかったのだとか。
一番は江川さんのギャラ問題です。これまでの功績から、出演者の中で一番高くなってしまった。さらに若年世代の野球離れが進むなか、スポーツ番組を次世代に継承するために出演者の若返りは大きな課題だった。江川さんはそんな空気も察知し、自ら降板の意思を示したのだと思います
長年、日本テレビのスポーツ番組の顔として知られていた江川卓さんが降板したのですから、
とネット上がざわつくのも納得ですよね!
江川卓が干された原因はなぜ?

続いて、江川卓さんが干された原因を見ていきましょう。
実際のところ江川卓さんが干された事実はないのですが、江川卓さんの評判が落ちてしまった事件はあります。
江川卓さんは法政大学卒業後の1978年11月22日、自身3度目のプロ野球ドラフト会議で指名を受け、阪神タイガースに入団しています。

しかし、入団したものの、阪神タイガースの選手として活躍はしていません。
というのも、
キャンプイン前日の1979年1月31日、読売ジャイアンツに電撃移籍した
のです。
一体どういうことなのでしょうか。
空白の1日事件
江川卓さんがプロ野球ドラフト会議で指名を受けたのは、1978年で3度目でした。
前年に西武ライオンズから指名を受けていた江川卓さんですが、入団はしていません。
プロ野球ドラフト会議の協約では、以下のような定めがあるのだとか。
野球協約では江川を前年に指名したクラウンライター(この時点では西武)の交渉権は(11月)20日に切れる。よって(同)21日はいかなる球団とも契約可能な日となる
つまり、11月21日は「空白の1日」になるわけなのです。
そして、
空白の1日に、江川卓さんは読売ジャイアンツとプロ選手としての契約を結んでしまった
のです。
この衝撃的すぎる事実に世間は騒然となりましたが、当の読売ジャイアンツ側は契約の正当性を主張。
翌日に予定されていた、プロ野球ドラフト会議をボイコットしたのです。

読売ジャイアンツ球団が不在の中、1978年11月22日に開催されたプロ野球ドラフト会議。
そこで、江川卓さんの指名権を得たのは、読売ジャイアンツの因縁の相手・阪神タイガースだったのです。
読売ジャイアンツ側は、
12球団すべてが揃っていないプロ野球ドラフト会議は無効だ
と主張。
しかし、プロ野球ドラフト会議から1か月後の12月21日に、金子鋭コミッショナーが
巨人と江川の契約は認められず、11球団のみ参加のドラフトも有効
と公に発表したのです。
つまり、江川卓さんの獲得権は阪神タイガースにあると告げたのです。
ところが翌日になり、
阪神は江川と契約し、キャンプ前に巨人へトレードせよ
と告げました。
ただ、江川卓さんと阪神タイガース側の交渉が難航し、結果として春のキャンプイン前日の1979年1月31日に江川卓さんは読売ジャイアンツへ移籍したのです。
江川卓の移籍は犠牲者もいた!
阪神タイガースと契約を交わしていた江川卓さん。
入団を希望している読売ジャイアンツに移籍するためには、読売ジャイアンツから阪神タイガースへ移籍してくれる犠牲者を選出しなければなりません。
その犠牲者というのが、
- 1978年シーズンは13勝12敗1S
- 長嶋巨人が連続優勝した76、77年は連続して18勝をマーク
するなど、大黒柱として読売ジャイアンツを支えてきた小林繁さんでした。

小林繁さんは、トレード前日に読売ジャイアンツの球団トップたちから説得を受けたようですが、
トレードはプロ選手としての宿命です。従います。
と、球団のありえない打診を引き受けたのです。
そして、阪神タイガースに移籍した後の記者会見では、
犠牲になったという気持ちはない。同情は買いたくない。
と毅然とした態度を取り、多くのファンの共感を呼びました。
これらの流れから、自分のことしか考えていない江川卓さんに批判が殺到したのは、いうまでもありません。
強引に読売ジャイアンツへ入団した江川卓にペナルティが課された
他人の犠牲を払ってまで、読売ジャイアンツへ入団した江川卓さん。
当然のごとく、以下のようなペナルティが課されました。
- 開幕までの謹慎(キャンプ、オープン戦の剥奪)
- 開幕から2カ月の一軍登録の禁止
自分の私利私欲で動いた江川卓さん。
ペナルティが課されるのは当然ですよね!
しかも、ペナルティ期間終了後も、野球中継などでは「あの(事件の)江川」などと言われるようになり、なかなか大変な思いを抱えながらプロ野球人生を送ったのはいうまでもありません。
江川卓の現在の活動内容を紹介!

最後に、江川卓さんの現在の活動内容を紹介します。
学生時代に輝かしいまでの功績を残した江川卓さん。
しかし、空白の1日事件を機に、江川卓さんの活躍を心から応援するファンはほんの僅かになってしまいました。
9年間という短い現役生活を終えた江川卓さんは、今現在野球解説者やYouTuberとして活躍しています。

どういう内容のYouTubeなのかが気になる方は、ぜひこちらからチェックしてみてくださいね!
色々とあった江川卓さんですが、犠牲者といわれた小林繁さんとは和解しています。
2010年に57歳の若さでこの世を去った小林繁さん。
きっと江川卓さんの活躍を応援していることでしょう。
だからこそ、私たちも江川卓さんの活躍を応援していきたいですね!

